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春の夕暮れ。
アスファルトに残る昼の熱が、まだ足元から立ちのぼっていた。 小学一年になったばかりの彩は、 背中に大きすぎるランドセルを揺らして歩いている。 その隣を歩くのは、姉――十八歳の歌原レイラ。 死まで、あと十年。 1. 楽屋裏・ファッションショー会場(都内某所) 制服のまま。 大きすぎるランドセルが、背中をいっそう小さく見せる。 彩は、控室の扉のすき間から中をのぞいていた。 鏡台の前。 一流のメイクアップアーティストたちが、迷いのない手さばきでレイラを仕上げていく。 パウダーの匂い。 ライトの熱。 空気そのものが、張りつめている。 彩は目を丸くし、夢中で見入った。 ――お姉ちゃんが、どんどんきれいになっていく。 キラキラして、まぶしくて。 ほんとうに、“おとぎばなしのお姫さま”みたいだった。 鏡越しに、レイラが視線を送る。 ずっと、気づいていた。 「……ふふ。そんなに見られると、こっちが照れるんだけど」 彩は、はっとして顔を引っ込めようとする。 「大丈夫。入ってきて。……ちゃんと見てて、彩」 彩は嬉しそうにうなずき、小走りで寄ってくる。 レイラが、そっと彩の頬に触れる。 ――そのとき。 レイラの視線が、袖口に止まった。 左腕。 淡い紫色の痣。 一瞬、呼吸が遅れる。 「……」 言葉にならないまま、視線だけがそこに縫い留められる。 「あ、それね」 無邪気な声。 彩は、自分の腕を差し出した。 「だいじょうぶだよ」 レイラは、触れない。 触れられない。 「きのう、ちょっといたかったけど」 一拍。 「お母さんがね、“間違ってごめんなさい”って」 レイラの眉が、ほんのわずかに動く。 鏡越しでも分からないほどの変化。 「わざとじゃないって。 だから、わたし、ゆるしたの」 “ゆるした” その言葉が、静かに落ちる。 「……そう」 声は、完璧だった。 「いまは、もう痛くないよ。ほら」 痣の上で、指を動かそうとする。 「――やめなさい」 強くも、怒ってもいない。 ただ止める。 彩はきょとんとする。 「だいじょうぶだよ? お母さん、ちゃんと謝ってたし」 レイラは、ゆっくりと息を吐いた。 ――二度目。 一度目は、偶然と呼べた。 二度目は、もう違う。 「……彩は、悪くない」 それだけ言う。 彩は、意味も分からないまま、にこっと笑った。 レイラは、そっと袖を整える。 痣が完全に隠れる。 ――これは事故じゃない。 ――取引だ。 レイラの瞳の奥で、何かが静かに切り替わる。 「レイラさん、あと三分です!」 「はい」 レイラは立ち上がり、彩の目線までしゃがむ。 そっと頬をつつき、囁く。 「行ってくるね、彩」 「うん! がんばって!」 レイラは、光の方へ歩いていく。 その背中は、遠くて、まぶしかった。 ――あのとき、私は思ったんだ。 “お姉ちゃんみたいになりたい”って。 2. ショー本番・ステージ上 煌めくランウェイ。 歓声とフラッシュが交錯する。 レイラが登場した瞬間、会場の空気が変わった。 流れるような一歩。 完璧なポーズ。 そのすべてが、“スター”だった。 観客席最前列。 小さな椅子に座る彩は、両手を胸の前でぎゅっと握りしめている。 足元にはランドセル。 制服の上着が、きちんとたたまれていた。 ……お姉ちゃんって、ほんとにすごい。 ステージ端で、レイラが彩にウインクする。 彩の頬が赤く染まり、目を大きく見開いた。 3. ショー終了後・控室裏の廊下 「おねーちゃんっ!」 レイラは、ハイヒールのまましゃがみ、彩を抱き上げる。 「ただいま。どうだった?」 「すっごくかっこよかった! わたしも、ぜったいモデルになる!」 一瞬、レイラは驚いた顔をして。 すぐに、笑った。 「ふふ……じゃあ、約束ね」 小指を絡める。 「いつか、ふたりでランウェイを歩こう」 「やくそくだよ!」 4. その夜・車の中 黒塗りの車。 運転席に歌原和人。 助手席に歌原陽子。 後部座席に、レイラと彩。 彩は制服のまま寄りかかり、眠そうにしている。 足元には、ランドセル。 「ねえレイラ、今月も……例の件、なんとかならないかしら」 「お前が稼いでるから、彩を育てられるんだ。 家族のためだと思え」 レイラは、目を閉じて息を吐いた。 「……振り込みは、明日しておく」 一度は、彩を引き取ろうとした。 二人で生きる未来も、考えた。 でも―― “親権”という鎖を盾に、和人と陽子は彩を渡さなかった。 断れば、また痣が増える。 だから私は、差し出すしかない。 「ほんとレイラは頼りになるわねぇ。 彩にお金かけてあげないと、可哀想でしょ?」 彩が、うっすらと目を開ける。 眠たげに、瞬いた。 レイラは身をかがめ、小さな声で耳打ちする。 「……彩は、私が守るから」 その言葉の意味も、重さも。 幼い彩には、まだわからなかった。 お姉ちゃんの匂いがしてた。 あの頃の思い出は、ずっと光ってる。 でも、 あれが“最後のやくそく”だったなんて、思いもしなかった。 約束を守れなかった悔いと共に、 私の物語は始まった。 ――第2話へつづく。──守るべきものと、切り捨てるもの──歌原レイラ(24歳)――死まで、あと四年。その夜、彼女は初めて「家族」という言葉を、判断の外に置いた。1 歌原家・居間(夜)古びた照明が、テーブルの天板だけを白く照らしている。壁には色あせた家族写真。新聞、空き瓶、使われなくなった家電の箱。片づけられないままの生活の痕跡が、居間を占拠していた。テーブルを挟んで、父・和人と母・陽子。向かいに、歌原レイラ。彩は、廊下の影に身を寄せ、息を潜めて様子をうかがっている。壁掛けテレビには、消音のままランウェイを歩くレイラの姿。世界に向けて流れる映像と、この家の空気は、噛み合っていなかった。陽子「ねえレイラ。今月の“生活費”はもらったけど……」言葉を選ぶように、一拍置く。「それとは別に、投資の資金も必要なのよ」和人「前にも言っただろ。今は踏ん張りどころなんだ」「お前も、家族の“挑戦”は応援してくれるって言ってたじゃないか」レイラは背もたれに体を預け、視線だけを二人に向ける。声は低く、感情の起伏はない。レイラ「……今は、渡せないわ」沈黙。陽子「どういうこと?今までは、ちゃんと渡してくれてたじゃない」和人「まさか……金を抱え込むつもりか?」レイラは短く息を吐く。怒りでも嘲りでもない。考えを区切るための呼吸だった。父親を見る。レイラ「“投資”に失敗するたびに、私に泣きつく」視線を逸らさない。「太陽光発電の飛び込み契約。名義だけ私にして、三年で赤字」「“確実に倍”って書かれたDM。それで仮想通貨に手を出して、半分」一拍、置く。レイラ「……それを“挑戦”って呼ぶの?」和人「う、うるさい!誰だって間違えることくらいある!」レイラは否定しない。頷きもしない。今度は、母・陽子に視線を移す。レイラ「それから」母の指が、膝の上でわずかにこわばる。レイラ「毎月、同じホストに通ってる」陽子の目が揺れる。レイラ「ナンバー1にしたのは、あなた」「週刊誌にも載った。……私は、全部知ってる」一瞬、空気が凍る。だが、陽子はすぐに口を開く。陽子「だからって……家族を見捨てる気?」レイラは首を振らない。肯定もしない。背筋を伸ばす。そこにいるのは、娘ではなく、判断を下す者だった。レイラ
歌原レイラ(24歳)――死まで、あと四年。その春、日本を揺るがした会見の余波は、妹・彩の未来にも、確かに刻まれていった。1. レイラのマンション――アレッサンドロ・ノルディ(49歳)。イタリアの至宝。ファッション界の帝王にして、沈黙そのものが声明と同義の存在。私は、策を巡らせていた。二年連続で、ノルディ・コレクションのクロージングを務めた私が、その舞台を辞退すれば――彼は、きっと何かしらの反応を示す。たとえ沈黙であっても、それは私を肯定する証になるはずだった。しかし――。まさか、来日し、首相の隣に立って、私について語るとは。その光景を画面越しに見た瞬間、私は、思わず息を呑んだ。「歌原レイラがいないコレクションなど…… 開催する価値はない」ノルディの、その一言で、日本中が揺れた。冷え切っていた空気は、一夜にして逆流し、帝王が“私の名”を口にした、その事実だけで、すべてが塗り替えられた。辞退は、取り消された。そして、その夜――私は、彼に電話をかけた。受話器の向こうに響いたのは、懐かしい、低音の声。「……アレッサンドロ。 あなたが日本まで足を運んでくださるとは、 夢にも思いませんでした」流暢なイタリア語で、私は、感謝を伝える。「心から、ありがとう。 あなたがいてくれたから、 私は、まだ立っていられる」一瞬の沈黙。だが、その沈黙が、わずかな笑みに変わった気がした。「……レイラ。 お礼は要らない。 君は、守られる側ではない。 描く側だ」低く、確かな声が続く。「次のノルディ・コレクション、その舞台で…… 君と、君の選んだチームが、 “最高の美”を示してくれ」その声は、命令ではなかった。託す声だった。受話器を握る指が、わずかに震える。「……わかりました。 必ず、お約束します」静かで、しかし迷いのない返答だった。2. 彩の自宅・部屋深夜。窓の外には、街の明かり。彩はベッドに腰かけ、スマホを握りしめている。《……すごい……》タイムラインに流れる映像。壇上に立つ、ノルディの姿。「歌原レイラがいない世界は色を失う」その言葉が、胸の奥で、何度もリフレインしていた。画面の数字が、跳ね上がる。Instagram 830万 → 920万Twit
歌原レイラ(24歳)――死まで、あと四年。その春、日本の空気は、一人の来日によって揺れ動いていた。1. メディアの熱狂民放のワイドショー。新聞の号外。ラジオのニュース。そして、SNS。すべてが、ただひとりの来日を報じていた。画面に、テロップが並ぶ。『ファッション界の帝王、 アレッサンドロ・ノルディ来日』『天皇陛下ご拝謁、 首相官邸で会談へ』キャスターの声が重なる。「パリ、ミラノ、ニューヨーク、ロンドン―― そして、《ノルディ・コレクション》。 五大コレクションの中で、 デザイナー自身の名を冠する、 唯一の存在です」羽田空港に到着する、黒塗りの車列。沿道に押し寄せる人波。降り注ぐ、フラッシュの雨。皇居での表敬。首相官邸へ入る映像。異例のスケジュールに、日本中の視線が釘付けになっていた。2. 首相官邸・爆弾発言会見ホール。閃光が乱れ飛ぶ中、両者が壇上に立つ。首相(にこやかに)「わざわざ日本へお越しくださり、 心より感謝申し上げます」ノルディ(通訳を通して)「感謝するのはこちらです。 ただ――私は、儀礼のために来たのではありません」記者席がざわめく。シャッター音が、一斉に走る。ノルディは、言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。「私の目的は、ただ一つです。 ……歌原レイラ」会場がどよめき、首相が、思わず目を瞬かせる。「彼女は正式に、 私のコレクションを辞退すると通達してきました。 しかし、私は理解できない。 彼女が心を痛め、 歩みを止めている理由が―― 虚像にすぎないことを」通訳の声が、震えながら広間に響く。記者たちの手が一斉に上がり、シャッター音が爆発する。ノルディは、一歩前へ出た。そして、断言する。「歌原レイラがいないコレクションなど――」(静寂の一拍。 会場全体が、固まる)「……開催する価値はない」その一言は、政治的儀礼を超えた“宣言”として刻まれた。3. SNSの激変会見の映像は切り取られ、瞬く間にSNSへ流れ込む。数分も経たず、トレンドが塗り替えられていく。「ノルディって誰? そんなにすごい人なの?」「世界五大コレクションの帝王だぞ……」「その人が “レイラがいなきゃ意味ない”って言ったんだって!」「叩いてたやつら
春の光が、静かに窓辺を満たしていた。白いカーテン越しの光はやわらかく、だが逃げ場がない。彩は十二歳。中学一年生になったばかりだった。その傍らに立つ姉――歌原レイラ、二十四歳。死まで、あと四年。1. スキャンダルあれから六年。私はモデルとして、誰よりも強く、誰よりも美しく光ってきた。アジアの街角。空港の到着ロビー。巨大ビルボードに並ぶ、自分の顔。電車の車内広告にまで刷り込まれた姿は、いつの間にか「私」ではなく、消費されるための“記号”になっていた。それでも構わなかった。彩を守れるなら、それでいい。だが今――その歩みを、大きく揺るがす出来事が起きていた。ローテーブルに広げられた週刊誌。《人気モデル・歌原レイラ、 売れっ子俳優と“お泊まり密会”?》記事に映るのは、確かに私だ。恋愛?だからどうした。独身同士の交際を、まるで罪のように扱う。海外では問題にもならなかった。仕事に支障がなければ、尊重される個人の選択。だがこの国では、愛することすら“スキャンダル”と呼ばれる。私はページを閉じる。怒りよりも先に、冷静な計算が頭を占めていた。――どうすれば、彩に被害が及ばないか。2. 彩の戦いスマホの画面に、罵詈雑言が並ぶ。「昔から嫌いだった」「全部作り物」「スポンサーに抗議しろ」指がスクロールするたび、言葉だけが、皮膚を剥ぐように刺さる。支える声の方が多い。それも、分かっている。それでも――彩の目に入るのは、毒ばかりだった。……その夜。リビングの灯りの下。ソファに沈み込む彩。中学に上がったばかりで、ようやく持たせてもらったスマホ。小さな画面に、無数の言葉が降り注いでいる。涙は出なかった。代わりに、胸の奥で何かが熱を帯び、言葉にならない感情が渦を巻いていた。「……ふざけないで」慣れない指先が、一文字ずつ確かめるように動く。「おねーちゃんは、そんな人じゃない」「嘘ばっかり書くな」誤字交じりの反論。洗練されていない。届く保証もない。それでも彩は、自分にできることを、自分の場所から、全力で放っていた。3. 妹の顔そのとき、スタッフからの一報。画面を開いた瞬間、心臓が冷たく跳ねた。――彩の顔。関係のないはずの妹の写真が、悪意と共に拡散されていた
春の夕暮れ。アスファルトに残る昼の熱が、まだ足元から立ちのぼっていた。小学一年になったばかりの彩は、背中に大きすぎるランドセルを揺らして歩いている。その隣を歩くのは、姉――十八歳の歌原レイラ。死まで、あと十年。1. 楽屋裏・ファッションショー会場(都内某所)制服のまま。大きすぎるランドセルが、背中をいっそう小さく見せる。彩は、控室の扉のすき間から中をのぞいていた。鏡台の前。一流のメイクアップアーティストたちが、迷いのない手さばきでレイラを仕上げていく。パウダーの匂い。ライトの熱。空気そのものが、張りつめている。彩は目を丸くし、夢中で見入った。――お姉ちゃんが、どんどんきれいになっていく。キラキラして、まぶしくて。ほんとうに、“おとぎばなしのお姫さま”みたいだった。鏡越しに、レイラが視線を送る。ずっと、気づいていた。「……ふふ。そんなに見られると、こっちが照れるんだけど」彩は、はっとして顔を引っ込めようとする。「大丈夫。入ってきて。……ちゃんと見てて、彩」彩は嬉しそうにうなずき、小走りで寄ってくる。レイラが、そっと彩の頬に触れる。――そのとき。レイラの視線が、袖口に止まった。左腕。淡い紫色の痣。一瞬、呼吸が遅れる。「……」言葉にならないまま、視線だけがそこに縫い留められる。「あ、それね」無邪気な声。彩は、自分の腕を差し出した。「だいじょうぶだよ」レイラは、触れない。触れられない。「きのう、ちょっといたかったけど」一拍。「お母さんがね、“間違ってごめんなさい”って」レイラの眉が、ほんのわずかに動く。鏡越しでも分からないほどの変化。「わざとじゃないって。 だから、わたし、ゆるしたの」“ゆるした”その言葉が、静かに落ちる。「……そう」声は、完璧だった。「いまは、もう痛くないよ。ほら」痣の上で、指を動かそうとする。「――やめなさい」強くも、怒ってもいない。ただ止める。彩はきょとんとする。「だいじょうぶだよ? お母さん、ちゃんと謝ってたし」レイラは、ゆっくりと息を吐いた。――二度目。一度目は、偶然と呼べた。二度目は、もう違う。「……彩は、悪くない」それだけ言う。彩は、意味も分からないまま、にこっと笑った。レイラは、そっと袖を整える。痣が完全に隠れ